サムライのふるさと愛知で
庭園巡り
愛知サムライガーデンとは

時代が変わっても、
変わらず、美しく、
そこにあり続ける「庭」。
戦国の世、数々の合戦の舞台となった愛知。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑をはじめ、
名だたる武将たちがここ愛知で誕生しました。
そんな「サムライのふるさと」愛知には、
武将等にゆかりのある庭園が数多くあります。
春の梅・桜に始まり、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色まで、
四季折々のフォトジェニックな景色が、
今も昔も多くの人を魅了しています。

愛知サムライガーデンのご紹介

サムライのふるさと、愛知。
その歴史の1ページを
庭園の中に感じる。
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徳川園

- 大名が愛した、
尾張が誇る大庭園。 - 尾張藩2代藩主徳川光友公の隠居所大曽根屋敷を起源とした徳川園は、光友公没後に尾張藩家老職成瀬、石河、渡邊三家に譲られ、明治22年からは尾張徳川家の邸宅となりました。昭和6年に名古屋市は第十九代当主義親より寄付を受け、翌年徳川園として一般公開しましたが戦時下の大空襲により大半が消失、戦後は都市公園として整備された後に平成16年に再整備が完了し開園しました。有形文化財の黒門は明治33年に完成した総ケヤキ造りの三間薬医門で、昭和20年の大空襲による消失被害を免れた武家屋敷の面影を現在に伝える貴重な建造物です。また、庭園内の龍門の滝は、尾張家江戸下屋敷戸山荘の遺構から出土した石組(総数約360個、総重量約250t)を名古屋市は譲り受け、徳川園再整備により龍門の滝を復元しました。当時は龍門の滝から流れ落ちる水量が増し、飛び石が水中に没する趣向が凝らされており園遊会に招かれた将軍や諸大名は大変驚き、喜び楽しんだと言われています。現在も20分毎に龍門の滝は水量を増し、飛び石が沈み始める趣向を楽しめるように整備しています。
- 大名が愛した、
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中村公園

- 秀吉と清正、
二人の英雄が生まれた地。 - 豊臣家生誕の地として、近隣には豊臣秀吉や加藤清正に関する史跡が点在する地区。
秀吉を御祭神として祀る豊國神社、秀吉と加藤清正に関する資料を収集・展示する「名古屋市秀吉清正記念館」があるほか、「豊太閤産湯の井戸」や「お手植えのヒイラギ」がある太閤山常泉寺などもこの地区に集まっています。
- 秀吉と清正、
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名古屋城二之丸庭園

- 家康が築いた、
天下の名城に咲く庭。 - 1615年(慶⻑20)、徳川家康によって建てられた名古屋城内にある庭園です。
- 家康が築いた、
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白鳥庭園

- 中部の地形、
武将を巡る池泉回遊の美。 - 尾張徳川家の御船蔵及び貯木場跡地に作庭された庭園。中部地方の地形をモチーフに作庭された池泉回遊式日本庭園で、園内に中部地方ゆかりの武将の名前が付いた木橋等があります。
- 中部の地形、
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豊橋市二川宿本陣資料館

- 西国大名が旅を忘れた、
安らぎの庭。 - 二川宿は徳川家康が東海道に宿場を設置した当初からの宿と言われており、東海道五十三次の江戸日本橋から数えて33番目の宿場町です。二川宿本陣は、福岡藩の黒田家や萩藩の毛利家、鹿児島藩の島津家など、西国大名が多く利用しました。
- 西国大名が旅を忘れた、
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奥殿陣屋 蓬莱の庭

- 書院から眺める、
一幅の絵画のような庭。 - 徳川秀忠に仕え、大坂の陣の戦功により3千石を与えられた松平真次が大給(豊田市)に陣屋を構えたことから奥殿松平家は始まりました。第2代乗次のとき1万6千石の大名となり、大給藩が誕生しました。その後宝永4年(1707年)に第4代乗真が奥殿に陣屋を移して奥殿藩になりました。奥殿陣屋は文久3年(1863年)に乗謨(大給恒)が信濃国佐久郡田野口村(長野県佐久市)に龍岡城を築城して藩庁を移すまで奥殿藩の中心となりました。明治2年(1869年)の版籍奉還、同4年の廃藩置県で藩は消滅しました。藩の移動や消滅により、建物は移築や取り壊されました。現在の陣屋は観光施設として昭和60年(1985年)に岡崎市により整備されたものです。龍渓院にて旧陣屋書院の一部が庫裏として使用されていたのを整備して再び元の場所に移築されています。
- 書院から眺める、
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旧林氏庭園

- 美濃路の要所に息づく、
名門林家の名園。 - 旧林氏庭園を造園した旧林家は、江戸時代、東海道と中山道を結ぶ往還「美濃路」起宿の脇本陣家。明治24年(1891)の濃尾地震により江戸時代の建物が倒壊し、大正2年に再建した建物に昭和初期に作庭されたのが、旧林氏庭園です。林家の祖先は、織田信長の家老林通勝の一族とされています。また、美濃路は、江戸と領国を往来する各地の大名、将軍吉宗に謁見するために現在のベトナムから来た象、長州征伐に向かう徳川家茂の軍勢など、江戸時代には多くの往来があり、脇本陣林家も重要な役割を担っています。再建された建物は、江戸時代より規模が小さいものの、その配置は江戸時代に似せたもので、庭園はより趣向を凝らしたものとなっています。
- 美濃路の要所に息づく、
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内々神社

- 秀吉が必勝を祈った、
夢窓国師の造形美。 - 戦神として武将から篤く崇拝されていた「妙見さん(妙見大菩薩)」。そのご利益にあやかるため、豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に必勝を祈願し、内々神社の御神木を軍船の帆柱として伐り出しました。
後に、その御神木のお礼代をもとに現在の社殿が建立されました。本殿の裏手には夢窓国師の作と伝えられる名園が広がり、社殿・庭園ともに愛知県の文化財に指定されています。
※妙見さんとは: 神仏習合により境内に開かれた「内津妙見寺」に祀られる本尊。北斗七星を神格化したもので、古くから勝利をもたらす星として信仰されています。
- 秀吉が必勝を祈った、
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太清寺

- 家康が勝利を確信した、
縁起の地。 - 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩したと伝えられています。家康が「ここは何という所か」と尋ね長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜んだそうです。
また、甚助の妻が差し出した牡丹餅を食べようとしたが、箸が1本折れて顔を曇らせる場面がありました。すると、甚助が「これはまさしく天下は一本に成るの吉兆でございます」と申し上げたところ笑顔となり、牡丹餅を召し上がったといいます。
その後、勝川を渡り戦場に向かった家康は秀吉軍との戦いに見事勝利を収めました。
※太清寺(たいせいじ)は、かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、龍源寺は寛文3年(1663)に寺号を龍源山太清寺と改められ、現在の太清寺十王堂(阿弥陀堂)は、昭和55年(1980)に再建された。
- 家康が勝利を確信した、
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丈山苑

- 武士から文人へ。
丈山が愛した静寂の庭。 - 江戸時代初期に徳川家康の近習として活躍した石川丈山が終の棲家として京都一条寺に建てた『詩仙堂』のイメージを、生誕地である安城市和泉町に再現したのが『丈山苑』です。石川丈山は33歳で武人をやめ、家康没後に文人となり漢詩・隷書で名を馳せましたが、作庭家としても有名で、詩仙堂庭園はもちろんのこと、京都の東本願寺 渉成園(国指定名勝庭園)、酬恩庵 一休寺庭園を作庭したと伝えられています。
- 武士から文人へ。
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旧糟谷邸

- 幕府巡見使を迎えし、
豪農の格式と庭。 - 糟谷家の先祖は、戦国時代東条城(西尾市吉良町駮馬)を本拠とした東条吉良氏の家臣であったとされています。糟谷家は初代縫右衛門が荻原村で帰農して以来、豪農・豪商として14代470年にわたって栄えた旧家です。江戸時代には、領主の大多喜藩大河内松平氏の御用達頭取を務め苗字帯刀を許されました。また、将軍の代替わり毎に幕府が地方に派遣した巡見使の宿舎を計5回務めたことでも知られています。
- 幕府巡見使を迎えし、
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華蔵寺

- 義央公へと繋がる、
吉良氏ゆかりの静寂。 - 忠臣蔵で有名な吉良上野介義央公の曾祖父である吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父義安の菩提を弔うために慶長五年(1600)に創建した寺院です。
- 義央公へと繋がる、
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西尾市歴史公園(旧近衛邸・尚古荘)

- 武士の城に、
公家の雅が息づく場所。 - 酒井正親・重忠や田中吉政が城主を務めた西尾城のある歴史公園内に、公家近衛邸の邸宅の一部を京都から移築した「旧近衛邸」と、西尾城の遺構を活用して庭園設計された「尚古荘」が整備されています。
- 武士の城に、
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青龍山 満光寺
庭園公開:土日祝 10:00〜15:00
※行事等により予告なく休止する場合があります。あらかじめご了承ください。
- 家康の窮地を救いし、
鶏鳴の響く庭。 - 満光寺は平安時代の貞観2年(860)に円仁によって創建されたと伝えられており、徳川家康に関する逸話が残っています。
家康は三河を平定した後、遠江への進出を試み、野田城主菅沼定盈を通じて満光寺住職の玄賀和尚に今川方の井伊谷三人衆を徳川方へ引き込むように依頼しました。和尚は鈴木重勝の子重時らを説き伏せ、三人衆の協力を得ることに成功。家康の遠江進出に大きな功績を残しました。
また、家康が武田軍に追われて逃走の途中ここに宿をとった時、鶏の声によって武田軍が到着する前に起床し逃げることができ、命を助けられたといわれています。
- 家康の窮地を救いし、
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清洲城

- 天下へ翔けゆく、
出世城を彩る名園。 - 織田信長公が1560年(永禄3年)清洲城から出陣し、桶狭間の戦いにて今川義元を撃ち破った出世城で、織田信長公没後の1582年(天正10年)には信長公の後継者と所領の処分を議す清須会議が行われました。
- 天下へ翔けゆく、
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瑞雲山 本光寺

- 徳川を支えた誇り、
松平一族が眠る聖域。 - 1523年、深溝松平忠定が松平家の祈願所、菩提寺として建立された寺院。
深溝松平家は徳川将軍家を支えた十八ある松平家の一つで、境内には歴代当主の供養塔や墓が築かれています。
- 徳川を支えた誇り、





















